ユダヤの福音書、第二世界のイスカリオテのユダが書いたという福音書。
ユダの福音書は偽書であるから、転生したイスカリオテのユダがユダ・カーナと名乗り、自虐的に書いたとされる福音書。
ユダを知らない人は「聖書」を知らないのだから、知ってて当然、
福音書と名付いている以上、福音を宣べ伝える内容に成っている。
裏切者という箇所等がユダの皮肉とも取れる。ユダの自虐は悪を悪として自分より悪賢い者達を追い詰める様にして、悪は悪でも悪にとっての悪である。という事らしい。つまり、善の心を持っていながら、サタンにとりつかれ、御前に罪を犯してしまった。忘れたくても忘れられないイエスに関しての福音書である。ユダヤとしたのは、ユダの福音書は既にある訳だし、ユダヤ人すべてを一人格としてとらえて、ユダヤが書いた福音書という意味合いを含んでいるのだとそう思える。
私はやはり、その一字一句をとらえて再現しているのだ。福音書はまとまりがない福音ばかりが集まっている様だが、このユダヤの福音書は関連箇所(かんれんかしょ)を引用して、まとまりがある福音書を目指している。つまり、ユダヤというまとまりがない名前の中、福音という光を見出すという内容である。
ユダがユダヤの福音書を書くという事で、ヤは~人という意味合いで、ユダが名前である。つまり、ユダヤとは、ユダびとという意味合いで、つまり、ユダ王国の人々、ユダの末裔(まつえい)、両方に掛けているものなのである。ユダ+ヤという事で、ユダの人達は、こういうぐちゃぐちゃした福音書を待っていたのではないか?いや、ダニエル書で語られる鉄と粘土の国(イギリスとアメリカ)もやはり、こういうぐちゃぐちゃした認識の福音書を待ち望んでいたのではないか?そういう気さえする。
神がつかわしたイエス・キリストについて、実像にせまる一書。
普通の福音書と違い、文字面だけで、資料を視ずに書いている事から、歴史的には全く受け入れられないものと言えるだろう。
自殺したイスカリオテのユダは大図書館の東京に転生し、暮らす上で、自分の名前を残すべく、思い付く限りの福音を福音書として、挙げつらったのである。
つまり、イスカリオテのユダが印象論的に福音だろうと想った事が記しされた書なのである。ゆえに、粗削りだが、他にない書という付加価値が付いている。折りたたむ>>続きをよむ最終更新:2022-02-20 10:36:36
12510文字
会話率:10%
聖書の黙示録を聖句と聖句を照らし合わせて丁寧に読み解いていきます。
最終更新:2020-06-19 06:42:53
2282文字
会話率:10%