平成21年2月上旬、内田と澄子は京都市内の自宅を売り払うため、京都の今枝不動産に行く。その車中
鳴島守の光秀非犯人説を読む。鳴島は川角太閤記の矛盾点をついている。
同年3月中旬、三重県四日市市の日下部修一を訪問。彼から昨年の11月に京都
歴史研究会に発表する予定だった織田信長の人物像を聴く。
日下部は3回ばかり間瀬耕一と会っている。間瀬は信長殺しは細川忠興、黒幕が徳川家康と断定している。彼は家康を解く鍵は3つ葉葵と世良田姓にあるとして賀茂神社に行っていることを、日下部に話している。
そして、歴史研究会の合評会に発表する原稿は合評会の約1ヵ月前に富島に送ることになっている。
間瀬の合評会への発表は昨年の10月下旬の土曜日だから遅くとも9月の下旬までには富岡潤一に送られているはず。会員の手に届くのは10月の初旬であるのに、会員の誰一人として間瀬の原稿のコピーを貰った者はいない。
平成21年中旬、澄子と兄の内田は京都の下鴨神社と上賀茂神社に行く。賀茂神社の双葉葵を見るためだが、そこで矢口春雄という上賀茂神社に勤める男に会う。
彼から3回ばかり間瀬耕一と会っていると聞く。矢口は、間瀬は信長殺しにとんでもない秘密を見つけたのではないか。その事によって殺されたのではないかと語る。
常滑に帰った後、澄子はインターネットで徳川家の先祖について調べる。
その結果、各地を放浪していた先祖の徳阿弥親氏が松平郷に入り、入り婿となった事実を知る。その子孫が勢力を伸ばして三河を支配下に治めていく。
しかしその事に澄子は疑問を持つ。
どこの馬の骨とも判らぬ乞食坊主が松平郷にやってきてその地方の豪族の松平氏の婿になれるだろうか。
澄子はこの事について矢口にメールを送る。
矢口からは岡崎の六所神社を知らべると良いとの返事が送られてくる。ここに徳川家発祥の秘密が隠されていると言うのだった。信長殺しの犯人も間瀬殺しの犯人もここに繋がったいるのだった。
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平成20年10月20日、京都市山科区の行者ヶ森で間瀬耕一の撲殺死体が発見される。
5年前彼は知多半島の常滑から妻の澄子と共に京都に移住している。彼は常滑では旧家なので、京都へは観光目的できている。
2年前に京都で歴史研究会に入会する。平
成20年3月より本能寺の変について一カ月に一回会員各自が持論を主張し合う事になった。
会の主催者は冨島潤一、会の実質的な運営者である望月源之助が信長殺しは明智光秀という通説をとりあげる。これをを10名の会員に配布する。
3月に広岡直道が明智光秀単独犯行説を発表する。4月の会合では光秀単独犯行説の異論を述べ合う。
5月は高坂登と上村秋彦が朝廷陰謀説を取り上げる。6月は菊池学が秀吉首謀説を述べる。
7月は権藤昭一が足利義昭陰謀説を、8月は瓜坂舜造がイエズス会による信長暗殺説を、9月には成島守が明智光秀非犯人説を披露している。
10月は間瀬耕一の番だが殺されたため、未定、11月は日下部修一だが休止となる。
9月までの会員が発表した資料は冨島を通じて各会員に送付されていた。
しかし間瀬家にはこれらの資料が一切なくなっていた。間瀬澄子は夫が殺される当夜、夫が持って出たと推測した。これらの資料と間瀬耕一殺害と関係があるとみて、澄子は実兄の内田茂と共に各会員を訪問して、各自が発表した資料のコピーを貰う。その上で間瀬耕一との利害関係を調べるが、殺害の動機に結び付くものは見当たらない。
内田は常滑で不動産を営んでいる。仕事の事もあり、2人は一旦常滑に帰る。
平成21年2月下旬に間瀬澄子に日下部修一から電話が入る。彼は11月に発表する予定であった資料のコピーを渡したい事と、間瀬耕一について気になる事がある。事件に結びつくかどうか判らないが電話では話せないので直接会って話したいと言う。
間瀬澄子は日下部の言葉を聞いて胸の騒ぐのを覚えるのだった。折りたたむ>>続きをよむ最終更新:2017-02-17 08:59:12
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