川越近隣の廻船問屋の末裔として生まれた、塚田守は、先祖のお陰で
戦後の物資不足の事態でも、食べるものに苦労することなく育ち、戦後、
神武、岩戸景気で父、塚田一郎は財を増やした。息子の塚田守には、
小さい頃から、算数、英語などをたたき込み。
特に、ソロバンが得意。
中学でも主席で、都立国立高校から東京大学工学部に合格した。
しかし、大学1年の時に頭に激痛が走り、医者の診断で小さな脳腫瘍が
見つかり、日本で,始まったばかりの強度変調放射線治療を開始する事
になった。もちろん多額の医療費がかかるが、父のお陰で、治療を受け
られた。治療後、何か意味不明の映像のようなものが、頭に浮かび、
気になったので、それを帳面に書き写して残した。2回、3回目の
放射線治療で頭のモヤモヤ感が消え、勘が鋭くなり、集中力が蘇った。
その書き写したものを見て、父が驚き、株投資に利用し、大成功した。
その後、定職に就かず、家庭教師のバイトで生活していたある日、
行きつけの喫茶店で、そこのマスターが交通事故で亡くなった時に
遭遇して、気が動転した奥さんの手伝いをして、葬式の手配をした。
そうしてるうちに仲良くなって、喫茶店を手伝い、結婚した。
その後、株投資で財をなし、子供達を早稲田大学理工学部へ入れ、
米国を旅行し、しばらくしてポルトガルへ行き、好きになり、
ゴールデン・ビザを取り、長期滞在できるようになり当地でクルーザ
ーヨットを買い、現地のアメリカンスクールに子供を入れた。
その後、再び、妙な映像が頭に残り、日本の実家に電話を入れた。
・・・その後の奇妙な出来度と、子供達の将来と展開していく物語。
その奇妙な出来事と、子供達の将来については、小説を読んでの
お楽しみです。是非、ご覧下さい。
折りたたむ>>続きをよむ最終更新:2019-01-15 22:55:11
43775文字
会話率:1%
石津健之助は、1950年に北関東で生まれた。実家が豪農であったため、食べることに苦労することなく、金銭的にも不自由なく育ち、地元の名門高校から、慶応大学商学部を出て、製薬企業のプロパー・学術宣伝営業になった。東京で営業センスを磨き、東北、新
潟、長野と転勤したが、生まれつきのハンサムで、愛想の良く、口が旨く、女性にも、お医者さんにも人気があり、業績を伸ばした。また、営業表彰・報奨金をいただき、貯金をして金を貯めた。加えて、出張先の飲み屋の娘や、看護婦さんにもてて、出張に行っても、ホテルに泊まらず、彼女たちの部屋に泊まる日が多くなり、出張費、外勤手当がそのまま残り、金は貯まる一方で、笑いが止まらなかった。しかし、業績が良くなると、更に頑張って、無理を続け、若くして、重症の自律神経失調症・メニエールになって、営業ができなくなり、早期退職となってしまった。しかし、結婚した看護婦さんに助けられて、有名な温泉・熱海のマンションに住んで、療養に励み、1年ほどで、回復し、近くの人達と交流を深めた。その後、親しくなった友人達の死を乗り越えて、旅行に出かけて、新しい世界を歩む。その後、海外旅行にも出かけ、ポルトガルに古き良き日本の幻影を見て、通うようになり、見聞を広めて、いろんな冒険をして、楽しんでいく物語です。アルファポリスにも重複投稿します。折りたたむ>>続きをよむ最終更新:2019-01-03 17:08:14
106934文字
会話率:1%