2011年3月11日・東日本大震災の日、谷川智子は2年前に亡くなった
亭主の事務手続きの書類に不備が見つかったと役所から連絡があり橫浜市役所
と神奈川県庁に行き、担当部署を回り処理し2つの部署で完了の確認をもらった。
その後、亡き、亭主との
思い出の山下公園を巡った。その時、向かいの少し
離れたベンチに座っていた初老の男性が「やー久しぶり」、元気と声をかけ
て来た。それでも、思い出せない。すると、
「俺だよ、俺、M中学の時、一緒だった、滝山恒夫だよ」と言った。
聞けば、仕事でアメリカに渡りアメリカ人女性と結婚したが仕事で日本に
帰って来る時、アメリカを離れられないと言われ、離婚したと言った。
そんな話をしていた午後3時前に急に地面が揺れ出し大きな地震が起きた。
その時に滝山恒夫が、こういう時は、安全で広い場所、そー、ここなら、
パシフィコ橫浜へ行こうと歩き出した。途中のコンビニで食べ物、飲み物を
買いパシフィコ横浜に入った。その後、夜10時過ぎに地下鉄が動き出した
との情報を聞き、みなとみらい駅へ行き、新横浜へ向かった。そして谷川智子
のマンションに入ると食器が散乱していたので、滝山が、かたづけて都市ガス
を使える様にしてお湯を沸かし、食後、風呂に入り、泊まった。翌日、滝山が
勤務してる会社の仙台営業所に連絡すると、橫浜営業所に出社しろと言われ、
橫浜営業所、勤務となった。その後、滝山は昔、好意を持っていた谷川智子に
求婚し、結婚を受諾してもらった。その後、日本国籍をもどし米国に残した
財産を精算した。その後、2人で新潟、北海道を旅した。その後、同窓会を
企画し旧友との親交を深めた。その後、谷川智子の長男から経済的支援を
依頼され、智子が応じたが、その後も数回にわたり支援要請を受けて遂に
彼女の全財産を渡した。その後・・・。あとは、読んでのお楽しみです。折りたたむ>>続きをよむ最終更新:2019-05-13 17:34:58
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会話率:3%
主人公の木下信夫は1958年、千葉の五井で生まれ、親に300万円を
借りて日本株投資をはじめた。千葉大卒業後、三菱銀行、千葉支店に入行し、
結婚した和美さんは経理、信夫は営業・外勤に配属され懸命に働いた。
銀行の給料は良かったが販売ノルマが
課せられたが業績表彰も
受けた。しかしノルマが重くのしかかりストレスは半端なものではなかった。
長男、栄一、長女、華子が誕生し年収も増えたが、ストレスで体調を崩した。
株で儲けた事もあり、奥さんと2人で41歳の若さで銀行を退職し
自宅療養に励み徐々に体調が回復した。子供達も大学卒業後、子供達も
金融の世界に入った。 その後も着実に資産を増やし2008年9月の
リーマンショクも乗り切った。2010年には信夫の腎臓病がわかり
母の好意で腎臓提供を受けた。
その後、中学時代の柔道のライバル佐藤健介に偶然に会い信夫が父の
友人の地元の木谷建設に就職口を斡旋してあげた。木谷建設がグループの
大企業がマンスリーマンションをで4件建てたが業績が落ちてきて
4年目には持ち主のSKSハウスが手放すと言うので、信夫が従業員ごと
買い取る交渉をして改修工事費用をしてケアハウスにして東京の高齢者
を送り込んだ。
今までの蓄えを社会奉仕に活用しても惜しくないと思い、信夫は
夫婦で、その事業を継続し、その後、社長の座を佐藤健介にゆずり、
和美さんと信夫は、自然体の生活、好きな時に釣りをし、本を読み、
晴耕雨読の隠居生活をはじめて、夫婦仲良く長生きしていった。折りたたむ>>続きをよむ最終更新:2019-03-10 20:45:09
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会話率:0%