第一章 放浪
伊達家に仕える林子平は、藩政改革案を度々、提言するも受け入れられず、禄を返上して仙台を旅立った。奥州や蝦夷を見て回る。
第二章 前句付け
子平は江戸に行き、民衆の支持を受ける前句付けの第一人者である柄井川柳と出会う。
川柳との縁で、幼少の頃の松平定信や、田沼意次と面識を得て、良い刺激を受けた。
第三章 異国への夢
子平は、江戸の工藤平助の屋敷を訪ねて感銘を受け、弟子入りした。そこで、蘭学や国学の士たちと交流を持ち、異国への関心を募らせる。
その後、長崎出島の通詞である吉雄耕牛と共に長崎に行った。学問に励みながら、オランダ船を見る機会があり、日本の船の性能が著しく劣っている状況に危惧を抱いた。
第四章 江戸参府随行と養子定信
カピタンの江戸参府に従ってきた子平は、定信が白河藩に養子に出される事実を知った。
屈辱に苛まれた定信を、川柳と子平は慰めた。
長崎に戻った後、唐人屋敷で反乱が起きた。太平に慣れた役人たちは戸惑うばかりであったので、子平は策を提案して鎮圧に功をなした。
第五章 蝦夷地随行
日本中に異国の存在を知って貰おうと、『三国通覧図説』を執筆、刊行。
意次が蝦夷調査を開始したため、子平は随行を希望し、最上徳内などと共に東蝦夷に向かった。
東蝦夷で、ロシア人の出没と、徐々に南下している事実を知った。
第六章 新たな改革
将軍の逝去に伴い、意次が失脚、後に死亡。
定信が頭角を現し、寛政の改革が始まった。
定信の政策は、意次の政策を全否定するもので、蝦夷地開発・探検も中止となった。
子平と川柳は定信を諌めるが、定信は取り合わなかった。
第七章 海国兵談
子平は、本を作る木版が手に入らず、各地で講演をしたり、読売に投稿をしたりした。
が、幕府に睨まれ、上手くいかなかった。
やがて、仙台で木版が手に入る目処がつき、自ら版木を彫り、『海国兵談』を完成させた。
しかし、『海国兵談』を刊行後、版元ともども定信に捕えられ、版木は没収の上、牢に入れられた。
終章 六無斎
子平は、兄のもとに預けられ、謹慎・蟄居処分を受けた。
蟄居後、ロシア船が交易を求めて厚岸に来航し、子平の言が正しかったと証明された。
子平は死病に侵され、亡くなる間際に、定信からの文が届き、子平に謝罪を述べていた。
折りたたむ>>続きをよむ最終更新:2017-11-14 10:39:52
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